それは、今では二十歳となった長男ソウタが、まだ乳母車に揺られていた頃の話。田んぼ脇の小道を、妻かおりがソウタを乗せた乳母車を押して歩いていると、向こうから見知らぬ中学生男子がひとり、近づいてきた。
そして、すれ違いざまに、ソウタを見て、ぼそっと一言。「お、かわいい」と。これが中学生女子であれば、「かわいー」と、慣れた感じで語りかけてくる姿は容易に想像できるのだが、すでに声変わりをしていたであろう男子の朴訥な呟きとなると、なんだか微笑ましい。
当然、ソウタ自身には、その出来事の記憶など残っているはずもないが、中学生男子に「かわいい」と認めてもらえたあの一瞬の遭遇は、意識のどこかずっと奥深いところで、しあわせな思い出となっているのかも。
もうひとつ。これは私のサッカー仲間のテルオさんの話。
ある日、テルオさんは、イングランドの名門サッカークラブ「チェルシー」のジャージを着て、町中を歩いていた。上は白、下は青でばっちり決めた、買ったばかりのジャージを着て、さぞかし良い気分で、足取りは軽かったのであろう。
やがて向こうから自転車に乗った見知らぬ中学生男子が現れる。そしてすれ違いざまに、一言。
「ふっ チェルシーやん」と。
テルオさんは今でもそのシーンを思い出し、「なんかもう、めっちゃ恥けかったあ」と振り返る。私も深く同意する。これは、恥ずかしい。見知った子に言われるならともかく・・・。けれど。私はなんだかしあわせな気持ちになる。
このふたつのエピソードの舞台は、見知らぬ中学生が自然に声をかけてくれる、町、という空間。それほど遠くない過去に、そんな空間が確かにあったのだ。人と人がマスクやコロナによって切り離されることなく、その間にあるものが、今よりもずっと穏やかさに満ちていた。
町中を何の気なしにただ歩く。そして道行く人と言葉と微笑みを交わす。そんなささやかな営みが難しくなってしまった今の時代。微かな希望を、小さな町で織り成された平和な風景の記憶に託そうか。
Comments