2月26日、江戸文化研究者の田中優子さんを迎えて、「ムダ活のすすめ」のオンライン・トークイベントを開催した。ここでは、その前半で、ぼくが話のマクラとして縄文について話し、それを受けて、田中さんが、江戸時代について話してくださった部分を抜粋した。ぼくたちの祖先が過ごしていただろう、豊かでムダな時間に思いを馳せてみようではないか。そして豊かなはずのぼくたちの時代の”貧しさ”について。
縄文のムダ活
辻信一:今日は話の枕としてこれを見ていただきたいんですけど、山梨県立美術館で去年の秋までやっていた”縄文の美”という展覧会があったんですよ。縄文を美術として、美術館でやるという珍しい展覧会。これには本当に驚き、感動したんですね。この写真の背景にある写真は、その前にある大きな土器周りを写真家の小川忠博さんが撮って、展開写真にしたものですね。
特に縄文中期の土器というのはこんな感じで、専門家によると、これらはみなとてつもない時間をかけて、多くの人たちが関わって作っているらしいんですが、こうしたものがどうやってできたか、いまだによくわからないくらいだそうです。土器の多くは非常に薄くて、こういうものを焼く時に、温度が均一でないと割れるんだそうで、かなり高度な技術がないと普通はできない。不思議なんですね。また土器の用途についても、多くのものについて、説明がうまくできない。いったい何の役に立ったのか。ものすごい手間暇をかけて、これだけ複雑で、大きくて、美しいものを大量に作るんだけど、何の役に立ったのっていうのもよくわからないって、いったいどういうことなのか。
そうするとぼくらは結局、縄文の時代って、とてつもない豊かな時代だったんじゃないかなという思いに行き着くわけです。もちろんお金がいっぱいあるとかそういう意味の豊かさじゃなくて、「時間もち」なんですね。
一方、現代社会っていうのは、全体として見れば、お金は溢れかえっているんだけど、ほとんどの人が時間貧乏で困っている。ぼくらにとって、まったく生産的ではない、効率的ではない、ムダとして切り捨ててしまう物事がこの縄文の世界には潤沢に、豊かに生きていたということですね。
さて、縄文の話をしましたが、江戸時代に関してもすごくそれと類似したことが言えるのかもしれないなという思いをずっともっているんですね。田中優子さんの書かれたものを通じて知る江戸時代はまさにそういうものだと思う。田中さんには、ぼくが高橋源一郎さんと一緒に共同研究としてやっていた『「あいだ」の思想』や『「雑」の思想』にも参加していただいたわけですが、そこで聞かせてもらった江戸の話から見えてきたものは、ぼくが今、縄文について言ったことと非常に近いものがあると思います。江戸もまたムダにあふれた、その意味で、豊かな社会だったのではないか、と思うんです。
田中優子:今の縄文についてのお話、驚きですよね。縄文時代って1万年ぐらいあるんです。まず縄文時代にはお金というものがまだない。それから弥生時代のように権力者の争いというのもまだほとんど起こっていないような時代ですね。ですから、おっしゃるとおり、時間がたっぷりあった。農耕はまだ本格的には始まってなかったようですが、栗などは栽培されていただろうとか、お葬式などの儀礼は行われていただろうとか、いろんなことがわかってきていますね。でもよく見ると、縄文土器そのものがどんどん変化していますので、ということは、世代から世代へと引き継ぎつつ少しずつ変えていく。そういう非常に長い時間をかけたゆるやかな発展を遂げたんだろうと思います。
江戸時代のムダ活
田中:江戸時代は270年間ぐらいですから、1万年とは比べものにならないんだけれども、でも共通点があって、それは何かというと、まず戦争がない。小競り合いぐらいは縄文時代にもあったかもしれませんけど、でも深刻な生活の破壊がもたらされるような大きな争いがなかったということがすごく大事なことだと思います。それからもう一つは、そういう平和な時に人間は何をするのかというと、やっぱり楽しみを見つけるんでしょうね。縄文土器を見ていると、楽しそうだなと思います。その「楽しそうだな」の中には自然とのつながりを感じますよね。この紋様は波かもしれない、いや炎かもしれないとかと、今の私たちに自然とのつながりを連想させるようなものが、縄文土器の中にはたくさんある。自然界にあるさまざまなものを道具にして、手で実に丁寧に模様をつけていただろうということもわかりますよね。
貨幣経済の中で、お金でやりとりされるわけではないのに、土器などがこんなに丁寧につくられていく。そのとき、つくり手たちの中に何が起こっているのかということを私たちはちゃんと想像しなきゃならない。まず、彼らは時間に追われていない。それからこれを一つ仕上げるといくら稼げるという報酬のことは考えていない。つまり数字でカウントしていない。そういう時間の流れ方は、私たちにも想像できるんです。
『芸術の目的』でウィリアム・モリスが書いてることですが、中世の職人たちがどうやってものを作っていたのかというと、仕事がお金に換算されない。交換したとしても非常に安いからお金のことを考えてもしょうがない。何時間かけても文句は言われなかった、というんですね。ウィリアム・モリスという人は、中世のものづくりと近代になってからのものづくりとの違いがものすごく大きくなってしまったことに苦しんで、自分自身が中世のものづくりの中に入っていきたいと思って、現実にやってみたわけです。紙の本の印刷から、織物にいたるまで、自分でやってみた。やってみるとわかることが確かにあるんだと思うんです。
古代や中世の日本でもそうだったでしょうね。お金に換算されない世界で生きていた職人さんたちというのは、もともとそういうものだった。ところが、職人さんたちの中に、国によっては、王宮に囲われ、注文されたものを作らないといけないとか、注文された期日までに作らないといけないとか、が生まれると思うんです。日本でも、大名家、例えば加賀100万石の中に抱えられ、雇われていたすばらしい職人がたくさんいらっしゃった。しかしその人たちでも、一つでいくらという換算をすることなく、雇われているという安定した状況の中で、たっぷり時間をかけていいものをつくった人も、たくさんいたのだろうと思います。
江戸時代になると、江戸の中はもう貨幣経済の世界です。確かにモノは商品としてお金でやりとりされているんですよね。だけれどやっぱり安いんですね。本を書いたとしたって、それで印税がはいってくるわけではないし、かなり売れる作家さんでも版元が遊郭に連れていってくれるくらいのことはあるかもしれないけど、「何を書くといくら」ってことにはなってないんですね。
さらにそこまでゆく過程で、俳諧とか狂歌とか川柳とかというものがどんどん生まれてきてしまって、これらをやってる人たちって何のためにやっているかっていうと、目的がないんです。結果のことはあまり考えていない。例えば芭蕉という人がいる。芭蕉は職業的な俳諧師といわれているけれども、「何かやってそれでいくら」というお金のもらい方はしていないんです。
芭蕉は役人だったんですね。名主の秘書をやっていた。江戸で。だけれども俳諧の方をやりたくて、役人をやめてしまって旅に出るわけです。旅に出るときに、お金をほとんど持っていかないんです。それは弟子になった人たちが迎えてくれてそこでその家に泊まらせてくれて、その代わりに、座を開いてください、と頼む。「連句」ですので「座を巻く」っていうんですけど、芭蕉が行くと彼を中心にして何人か集まってきて、じゃあやりましょうということになって連句を巻くわけですね。それを執筆(しゅひつ)という人が記録していく。記録しながら芭蕉からいろんなことを教わっていく。記録が終わったらそれを何らかの冊子みたいなものに仕上げて、面白いねって言って終わるわけですね。
これがかなりたまっていって、のちに『芭蕉七部集』に入ったり入らなかったりする。入らなかったものはたくさんあると思うんですよ。でも彼らにとっては、とにかく芭蕉をお迎えして、座をまいてその座がものすごく質が高く、緊張感があって面白くて、学ぶところがたくさんあるものになることが大事なんです。そういう座になって、そこでともに時間を過ごす。それがとても価値があるんですね。両方にとって現金のやりとりなしに、一方は泊まって何か食べさせてもらったし、他方は芭蕉から教わり、時間を共有した。時は過ぎていく。だけど作品として残っていく。残っていくとそこから今度は文字で学んで、また同じことが起こっていく。それが一茶につながったり、いろんな人たちにつながっていくわけです。これが「旅を生きる」という生き方なんですね。芭蕉は「旅を生きる」ことがすごく大事だと言っている。それは何かやって稼ぐっていうのと全然違う生き方ですよね。
辻:またその旅というのは目的地があるような旅とも違いますね。
田中:違います。例えば『奥の細道』だって、ただ後に奥の細道として知られることになる道を歩くってだけのことです。江戸時代の旅って、手形という、パスポートみたいなものをもらわないといけないので、最初に届けはするんですね。たいてい「◯◯参り」ですと言えば簡単に出してくれるから、名目として一応そう言うんだけど、実際はどこに行ってるかわからない。そういうような旅ですね。
こうした旅の文化は、まさに無目的なんです。俳諧というのが基本のところにあって、江戸時代の文化はそこに今度は狂歌、五七五七七の世界ですね。和歌のパロディ版である狂歌というのが出てきて、狂歌連という人たちが生まれてくるんだけれども、俳諧はもちろん五七五、七七、五七五、七七とつなげていくから、複数の人が必要なので座をまくっていうのはわかるんだけど、狂歌連になると一首独立で五七五七七と自分で詠めばいいんだから、別段集まらなくていいと思うのに、集まるんですよ。狂歌連として集まる。そしてそこでみんなで一緒に歌を詠み、集をつくるんですね。歌合(うたあわせ)をやって、そこから良い歌を選んで集をつくるんだけれども、これもなんのためにやってるのかよくわからない。本人たちが面白いからやっているっていうだけです。結果が何かあるとしたら、私たちの時代にそれが伝わっているということですけど、それは版元が途中で入ってきて、これ本にしたら売れるよねと思って刊行した人がいたからなんです。
売れるよねという人自身も、自分で狂名をもって、狂歌を詠みながら入ってきて、実際に本にして売るわけです。刊行するのは悪いことではなくて、こんなことやっている人たちがいるんだということが広まる。それに刺激されて、また座ができたり連ができたりする。
そういうふうにして連ができてくると、狂歌の連だけではなく、「咄の会」をつくってみる。それが落語につながっていきます。小咄ですね。小咄って二通りあって、一つは、川柳などと同じように、水茶屋と呼ばれる、言わば喫茶店で募集したものに投稿される小咄。もう一つは「咄の会」という会を作って、咄をしたい人はとにかくそこに行って咄をするという、この二つなんですね。小咄ってそんなふうにして江戸時代のかなり初期のころから、いろんな人がいろんな小咄をつくって、それが集として今残っているわけです。
小咄やってどうするのかと言われても、それは面白いからいいでしょ、としか言いようがない。そういう俳諧も小咄も短いものですよね、短いから誰でも気軽に楽しめる。ということはそこに相当な人口が関わってくるということなんです。プロの作家さんじゃなくてもできる。だから相当な人口が結集してくる。
それは町だけではなく、村でもそうです。「筆子中」という寺子屋の同窓生たちの集まりがあって、俳諧の先生を呼んでくるというようなことをやっている。そんなふうに、文芸とはそもそもそういう遊びだったな、ということを思い出させてくれるんですね。賞をとりたいとか、印税を稼ぎたいとかといって詠んだり、書いたりするものじゃない。やっぱり人間がもともと持っている創造することへの衝動とか、楽しみとか、ワクワクする気持ちとかの表れです。それを、一人でやってもいいんだけれども、ある型を共有することによって、どんどん創造意欲が湧いてくる。
前の時代から受け継いだその型の中で、さらに創造性が生まれてくるという過程を通るんです。それは、絵を描くということにも言えます。浮世絵師にはプロはたくさんいますけども、それだけじゃなくて、絵手本というのがはやっていた。例えば北斎は絵手本をずいぶん描いているんですね。『北斎漫画』も絵手本です。絵手本ってなんのためにあるのかというと、素人がお手本にして、自分にも描けるんだと思いながら描く。素人が描いたものはほとんど残ってないんですけど、絵手本がこれだけ出てるということを見れば、みんなが描いてるということがよくわかる。
絵を描くとか、和歌の歌集を自分でつくるとか、女性たちだけで長距離の旅に出て歌を詠むとか、江戸時代にはよくあったんです。旅をしながら和歌をつくり自分たちでメモしていく。別に出版するわけじゃない。そう考えてみると、今私たちが日本文化として受け取っているものは、ほとんど無目的な遊びでできていると言っていいと思います。落語もそうです。
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