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執筆者の写真辻信一

ムダな時間をともにして、人間は人間となった  山極寿一に学ぶ



『スロー・イズ・ビューティフル』をはじめ、スローという言葉を冠したぼくの一連の本はもちろんのこと、『ムダのてつがく』もまた時間について考える本だ。この本が出版されたのと同じ頃、尊敬する霊長学者、山極寿一が時間について論じているインタビュー記事(2023年1月7日朝日新聞)を読んで、我が意を得たり、と心中、深く頷いたものだ。


その記事は「不安だらけの時代 山極寿一さんの提言は『今こそ迷惑をかけあおう』」と題されている。「迷惑をかけ合おう」とは、山極らしい、なんともチャーミングな呼びかけではないか。まず記者が、「今の日本社会は不安が広がり、希望を感じている人が少ないように感じ」るが、それはなぜか、と問うのに、山極はこうきっぱりと答えている。


一言でいえば、「時間の使い方」にその答えがあると思います。

産業革命までは、人類は自然の恵みに頼り「自分の時間」ではない自然な時間を生きていました。

それが産業革命以後、都市がつくられ、工業生産が始まり、時間を管理するようになった。人工的な時間をつくってしまった。生産を高めるために、なるべく時間を効率的に使うという思想が生まれました。


時間を効率的に使う、つまり、時間からムダを省くという思想が生まれたというわけだ。山極によれば、人類はかつて自然界と調和した時間を生きていた。それを彼は、「自分の時間」ではない「自然な時間」と呼ぶ。人間はこの自然な時間の代わりに人工的な時間をつくり、それを各人が所有して、「自分の時間」として管理するという考えに取り憑かれてしまった。それが今世界中に蔓延する不安や孤独の原因だと彼は考えるのだ。


山極は言う。

 問題は、人と付き合うことを忘れているということなのですよ。

 80年代、「自己実現」と「自己責任」という言葉が流行しました。これにより人々は、人に頼ることをやめてしまった。

 人に迷惑をかけなければ、自己実現のために何をやってもいい。自分がのしあがることによって、自分で「おめでとう。よくやったね」と自己評価する。そういう自己本位な世界観になってしまったのです。

 だけど私は、それでは孤立感だけを深めてしまうと思いますね。なぜなら、人間にとって時間とは、本来、他者と共有する時間だったからです。


「時間とは、本来、他者と共有する時間だった」。ぼくなりに言い換えると、「時間」という字が示しているように、「とき」と「あいだ」とは本来、一体で、切り離すことができない。時間を「そちら」と「こちら」、「私の時間」と「あなたの時間」とに、切り分けることは本来、できないのである。


山極は狩猟採集民を例にこう説明する。

 人類の進化の過程をみると、「時間」は本来、他者と共有する時間でした。

 私が長く付き合ってきたアフリカの狩猟採集民は、家も、服も、道具も、家具も、食糧調達もひとりで何でもできます。

 けれど、お互いに協力・分担しあっている。そこに、生きる幸福感を見いだしているからです。



現代社会ではどうだろう? もちろん、他者と共有する時間が消えてしまったわけではない。しかし、それは以前に比べて激減し、ますます社会の片隅へと追いやられつつある。多くの場合、他者との時間の共有は、「面倒」で「迷惑」なことだと感じられ、忌避される。だが、山極によれば、そうやって他者との時間を遠ざけることによって、人々はますます不安や閉塞感を感じることになるのだ。


他者と共有する時間とは、例えば、赤ちゃんを育てる親たちの時間だ。「自分の時間を手放して、赤ちゃんと過ごす。その時間は「自分本位」にならない」と山極は言う。自分とは「違う時間軸を持つ」存在と出会うことによって、「人工的な時間」、「生産的な時間」や、「自分の時間」の外側で、ともに時間を過ごすことが、人間が人間であるために、欠かせない大切な経験なのだ。


そして本来それは楽しいし、気づきのある時間になる。そうやって人類は新たな社会を創造してきたのです。

・・・だから、工業的な時間にからめとられ「生産的な時間」の中にいる人は、そうでない自然な時間に身を置くと、ほっとするのです。


「生産的な時間の外側」にいるという点で、子どもの時間と老人の時間は似かよっている。どちらも、時間を生産的に使うより、非生産的に、つまり、ムダに過ごすことに長けている。山極もこう言っている。


高齢者も、生産的な時間を生きていませんよね。つまり、古来、人が自然な流れの中で生きてきた時間と同じなのですよ。


しかし、現代社会には、異質な時間を生きる者同士が出会い、ともに過ごす時間がない。山極も、「高齢者、子ども、障害者、働く人、子育てする人たちが生産的な時間を離れ、交流し合う機会はかなり少ない」と指摘する。そして、そういう出会いや交流なしに、人間が未来へとつながる深い「気づき」を得ることはできないのだ、と。



では、そういう「気づき」を得るために、今必要なことは何か。


 気づくためには、「自分の時間」を放棄しなくちゃいけない。相手は人間でなくてもいい。海、山、森、熊、動物、貝、岩であってもいい。

 そこと対話して、自分というものと何か違うものが見えてくる。創造性をもって違う視点を得る。それが自分の未来なんですよ。


80年代には「自助」が、コロナ下では「公助」が唱えられた。しかし、山極によれば、今は「共助」の時代だ。それは、「極端にいえば、迷惑をかけあう時代なのです」と彼は言う。


「頼ること」「迷惑をかけること」「弱みをみせること」が、逆に親切なのです。相手に助けさせてやる。しかも、生産的ではない時間を共有できる契機を相手に作ってあげているのですから。


おしまいに、2ヶ月後の新聞に載った山極の寄稿文(「人類はどこで間違えたのか?」朝日新聞3月9日)から、その締めくくりの一節を紹介したい。ここでも、彼は「ともに生きること」と「共助」の大切さを説いている。


個人の欲求や能力を高めることよりも、ともに生きることに重きを置く。新型コロナに慣れて対面が可能になる今こそ、それを真剣に考えるべきだ。管理された時間から心身を解放し、自然の時間に沿った暮らしをデザインする。所有を減らし、シェアとコモンズ(共有財)を増やして共助の社会を目指すことが肝要だ。



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