まだまだ残暑厳しいですが、朝晩は涼しくなり、秋の虫の音が穏やかにきこえてきます。
さて、またまた我が子の園の話題です。にじタペには、運動会や発表会はありません。代わりに、というか、秋の行事としてあるのは、「お月見会」です。
鹿児島に移住して驚いたことのひとつに、この、お月見会がありました。初めて暮らした田舎の港町にも、その後過ごした農業や酪農の村にも、「お月見会」の風習は健在で、都市部の街中でもかろうじて残っていましたし、今暮らしている地域では、近年消えつつある一方で、復活を望む声は少なくないとのことです。
もちろん、生まれ育った東京でも、お月見は子どものころから楽しみな行事でした。お団子を作って、ススキを飾って、ベランダからお月様を眺める、家族や友達と過ごしたそんな時間は、よい思い出です。しかし、鹿児島で、お月見会といえば、そう、「相撲」「綱引き」「歌や踊り」と、もはやお祭り!? なのです。地域の行事として、子どもからお年寄りまでみんなが、広場や、辻々に集まります。
まず、綱引きや、大綱の練り歩きが行われます。そして、その綱を地面に丸く円を描くように置き、そこで、集まった子どもたちが相撲をとります。時には大人たちも参加して盛り上がります。この「月見で相撲」が定着しすぎたからか、地域によっては、公民館前の広場や校庭に、常設の土俵があったりもします。
その後は、お土産を配って解散する地域もあれば、踊りの奉納、焚き火のような儀式、はたまた、ステージでの出し物や抽選会〜!となるところも。ゆったりと月を眺める暇は、おそらく誰にもありません。ようやく帰り道に、月を見上げて、綺麗だねぇと言ったりします。
にじタペでも、この風習をもとに、親子行事の一環として、お月見会を開催しています。初めに、綱で大きな円をつくり、みんなで相撲に興じます。9月と言えどまだまだ蒸し暑い鹿児島の夕方、汗まみれ土まみれのまま、休むことなく次は、土俵の綱をまっすぐ伸ばして、綱引き大会が始まります。
(今はロープを使っていますが、いつかみんなで綱も作ってみたいと思っています。)
その後は、一息ついてお団子でも…とはならず、子どもたちのお芝居や親子のダンスや歌の発表があって、みんなでご飯を食べて、最後に、先生たちから影絵芝居とお楽しみの餅まきタイム。ゆっくり月を見上げるのは、やっぱりお月見会の終了後です。
それでも、私は、東京にいた頃よりもずっと、この鹿児島流お月見の方が、月を、自然を、天と地を、自分の存在を、感じることができている気がするのです。もともと、相撲も、綱引きも、餅まきも、芸能も、神事としてあったものではないでしょうか。
例えば相撲は、その目的や進行内容、場所の造りの全てに意味があるそうです。お月見会では綱しかありませんが、少なくとも、“「八卦よい、のこった」という行司の掛け声と共に、円の内側を入り乱れる2人の相撲取り”という構図は必ず生まれます。そこに、目に見えないなにかと繋がる瞬間があるように、感じます。
綱引きの歴史もまた奥深く、龍神を祀る儀式だったのではないかという説もあり、漁や稲作の豊年祭のような意味合いから、漁師町でも農耕の村でも、大切にされてきた行事だったのかもしれません。大きな綱を、稲藁や茅で作る「綱練り」と、綱を使った秋の行事は、南九州から南西諸島で見られる文化のようで、私自身、以前西表島でも盛大なお祭りを体験させてもらったことがあります。
歌や踊りを披露したり、みんなで食べたり飲んだりすることもまた、今を共に生きる人々、先祖、自然、目に見えないなにか、の中に生かされている自分の存在を感じるのです。
月って不思議で、地球から生まれたとか、潮の満ち引きや一人ひとりの身体や心と繋がっているとか、ほかの天体とは違う特別な存在として、捉えられてきました。お月見会という行事で、ただ月を眺め讃える、というより、月に見守られながら、何かに興じてそれを月に(地球に、自分たちに)捧げる、ということが、私にはしっくりきたのかもしれません。今年もまた鹿児島の各地で、こんなお月見会が開かれることでしょう。
みなさんの地域では、どんなお月見の風習がありますか?夏至や冬至のキャンドルナイトのように、秋の月夜に、電気を消してスローなお祭りや宴を催してみてはいかがでしょうか?
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