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執筆者の写真信一 辻

再び、三たび、HUMANKIND




11月28日、朝日新聞の「日曜に想う」というコラムで、論説委員の郷富佐子氏が「新自由主義の終わりと性善説」と題する文章を書いていた。そこには、去年英語版で読んで大ファンになって以来、勝手にあちこちで宣伝してきた『HUMANKIND 希望の歴史』の著者、ブレグマンの近況が紹介されているので、引用させていただく。郷さんの評価はイマイチのようだが、この本を強く推薦するぼくの思いは変わらない。今年の正月に、ぼくは「楽観と性善説と希望」の旗を勝手に振り回そうと決めたが、多分、来年も同じ思いで過ごすことになるだろう。


ぼくは数日前に出たサティシュ・クマールの『エレガント・シンプリシティ 「簡素」に美しく生きる』(NHK出版)の「訳者あとがき」にこう書いた。


 悲観や絶望や冷笑的な態度が広がるそんな時代に、サティシュの思想が、いよいよ輝きを放つことになると、ぼくは確信している。

 本書の中で、彼はこう言っている。

「あなたは私のことを現実離れした理想主義者と呼ぶかもしれない。そのとおり、私は理想主義者だ。ただ、あなたにたずねたい。『では現実主義者たちは何を実現しただろう。戦争、貧困、気候変動?』」。そして、世界を危機の時代へと導いてきた現実主義に代わって、いよいよ私たち理想主義者の出番が来た、と彼は言う。

 サティシュがここで皮肉をこめて「現実主義」と呼ぶのは、これまで政治、経済、教育を支配してきた、自然と人間の本性(ネイチャー)についての暗く悲観的な考えかたのことだ。西洋近代文明の中で育まれ、世界中に浸透した、“利己的、貪欲、競争的、狡猾、暴力的”といった人間像を、ぼくたちもまたいつの間にか自分の中に住まわせてきたようなのだ。

そんな風潮に対して、サティシュは常に理想主義と楽観論と性善説の旗を高々と掲げてきた。彼によれば、自然と人間の本性(ネイチャー)は愛なのである。「原罪」などない、あるのは「原愛」だけだ。そして、「自己愛、隣人愛、人間愛、そして自然への愛は、切れ目なく連なっている」・・・


というわけで、ぼくは来年も、理想主義と楽観論と性善説の旗を高々と掲げよう、と思う。それにしても、ダボス会議でのブレグマンのコメントは、なんと痛快だろう。今は亡きデヴィッド・グレーバーの魂が蘇ったかのようだ!



 

(前略)

オランダ人歴史家のルトガー・ブレグマン氏(33)がオンラインメディアに寄せた記事を読みながら、時の流れを実感している。「新自由主義は終わりを告げている。次は何か?」と題された記事で、彼はこう問いかけた。

 過去40年にわたって世界を支配してきた新自由主義の時代は、終わりを迎えている。それに代わるものはまだ見えないが、今回のコロナ禍は、私たちを新たな境地へ導くのではないか。信頼される政府、連帯に根ざした税制度、持続可能な投資といった、新しい価値観へ――。

     *

 ブレグマン氏は、ベーシックインカムを提唱する著書が世界23言語で出版されるなど、注目の若手論客だ。率直な物言いでも知られ、世界経済フォーラムが一昨年に開いた年次総会(通称ダボス会議)の小会合で、こう言い放った。

 「この会議では正義や格差、透明性は語られるが、だれも租税回避の話をしない。消防士の会議で水の話を禁じるのと同じだ。必要なのは慈善ではなく、税金の話だ。税金、税金、税金。その他はブルシット(クソどうでもいい)だ」

 世界中のVIPがスイスの高級リゾート地に集まるダボス会議は、「金持ちの憩いの場」と揶揄(やゆ)もされてきた。発言直後から、SNSは「その通り!」「王様は裸と言った」と盛り上がった。

 そのブレグマン氏の近著「Humankind 希望の歴史(上・下)」が、日本でも出版された。人間は生まれながらに利己的だという「常識」を崩し、性善説を証明しようとする試みである。

 これまで「人間は悪」を象徴するとされてきた数々の出来事を調べ直し、間違いや誤解などが判明したという。「事件の真相」や「友愛の逸話」の積み上げで人間の本質が結論づけられるのかという疑問は残るが、悲観的になりがちな現代人に欠けている視点かもしれない。


(後略)

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