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執筆者の写真辻信一

長崎にて 

今年、2度目の長崎。「ゆっくり小学校」ようむいん(用無員)の上野さんとともに、オランダ坂から唐人屋敷跡へと、これといった目的もなく、ぶらぶら歩く。途中、なんと素敵なものに出会った。「カフェスロー」というどこかで聞いたことのある名前のカフェ。目的をもって歩いていたら、こんな幸運はまずめぐってこない。


唐人たちがかつて押し込められていたという旧唐人地区も、大した期待などもたずに行ったおかげで実に面白かった。オランダ人が住んでいた出島の方ばかりが、注目され、観光の名所として、整備にお金もつぎ込まれているのと、こちらは対照的で、やはり、両方を見ないとバランスがとれない。ぼくらがこの辺りを徘徊しているあいだに、一人の観光客とすれ違うこともなかった。中国風の音楽がBGMで流れている他はひと気のない資料館だったが、なかなか中身が充実していた。


外から中へ入れるのが担当の役人と遊女だけ、というのは出島の場合と同じだ。5月に出島に行ったときにも、ぼくがいちばん興味をそそられたのは、そこに出入りする遊女たちのことだった。その後、尊敬していた森崎和江さんが6月に亡くなったこともあり、ぼくは『からゆきさん』を読みなおし、30年前にも増して、強い衝撃を受けた。さて、長崎”唐人ゲットー”の場合はどうだったのだろう。資料館にこんな記述があった。


「唐人屋敷に出入りする遊女は、唐館行と呼ばれた。これらの遊女の長期滞在は禁止されていたが、後には多めに見られ、その出帆まで居続ける遊女も少なくなかった。また、なかには出生した子供に多額の養育費を支払う中国人もいたので、その滞在費は莫大な額に達した。元文2年(1737)には唐館行の遊女は延1万6913であった」


一年でのべ1万6913人! さらに驚いたのは、この一文が載っているパネルのタイトルだった。「唐館の生活(文化交流)」!! 


夕食は、上野さんの計らいで、大村入国管理センターに収容されている”不法滞在”の外国人収容者たちの人権保護のために活動している3人の女性たちと、地元で人気が高いという店でいただいた。ぼくも前回5月の訪問時に、ご縁があって、大村入管のあの冷たく威圧的な建物の中へと入って、二人の南米出身者たちと面会することができた。その昔、師と仰ぐ鶴見俊輔さんからいただいた宿題に、やっと、こうしておずおずと向き合うことになった自分の姿が、そこにあった。3人の女性たちから。困難な状況を抱えている収容者たちの近況をいくつか聞くことができた。それにしても、彼女たちの、朗らかさと清々しさはどうだろう! 目の前の女性アクティビストたちの姿をぼくは眩しく眺めていた。


店を出て、路面電車に乗る女性たちを見送り、ぼくたちはまた歩き出した。今度は、目的地をもっているらしい上野さんは足早に歩く。ぼくはそれを背後から追う。


なんの変哲もないビルの階段を登ると、そこには、ジャズバーがあった。その名も「マイルストーン」。「一里塚」を意味するマイルストーンをマイルス・デイビスの名にかけた駄洒落で、マイルスがリーダーのアルバムのタイトルになり、後には、レコードレーベルの名前にもなっている。


1000枚ほどもあるというレコードを詰めた棚の前で、ぼくと同世代のマスターが、シェイカーを振ってカクテルをつくってくれる。CDがかかっていたが、せっかくなので、レコードをかけてもらう。まずは、カウンターの上に立ててあったオスカー・ピーターソン・トリオの名盤、We Get Requests(プリーズ・リクエスト)。そのジャケットは、リクエストもできますよ、という看板なおかもしれない。マスターが前もって言っていた通り、アンプの調子が悪いのだが、そんなことは気にならないほどの深くて渋い最上の音だった。次のリクエストは、やはりマイルスだろうと、3人で相談して決めたKIND OF BLUE




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