西日本を回ってきた「希望のキャラバン」も、6月28日の新横浜スペースオルタでの“総集編”イベントをもって一段落となる。ずっとアンニャ自ら運転してきたバンとも別れ、アンニャ一家は北海道へ向かう。ぼくがアンニャとトークアンドライブでツアーして回るの久しぶりだ。今回は、初めて大人になった娘のパチャ、息子のヤニという新しいトリオで、アンニャのレパートリーの中から、ツアーのテーマに沿った曲を選んで演奏した。長いブランクにも関わらず、パチャとヤニという音楽仲間とアクティビスト仲間を得たアンニャの歌声はパワフルで、彼女のシンガーソングライターとしての、環境活動家としての力にますます磨きがかかっている。
遅ればせながら、改めてこのアンニャという類まれな人物ーーぼくが最も尊敬する活動家=アーティストを紹介させてほしい。以下の
文章は、『しんしんと、ディープエコロジー アンニャと森の物語』(アンニャ・ライト・辻信一共著)の「はじめに」の全文である。そしてこれを読んで、もし、何か感じるところがあったら、ぜひ、明後日、ぜひ新横浜へ来てみてほしい。
はじめに
辻 信一
環境運動や平和活動の闘士として、世界中で活躍してきたアンニャ。シンガーソングライターとして、数々の美しくも熱しいメッセージソングをつくり、歌ってきたアンニャ。ぼくにとっては、同志であり、家族のような存在であるアンニャ。でも、そのぼくにとっても、彼女はひとつの大いなる神秘であり続けてきた。この本で、ぼくはその神秘に迫りたいと思う。
アンニャとぼくとナマケモノ
まず、ぼくとアンニャとの浅からぬ縁を結ぶ役割をはたしてくれた、ある動物の話からはじめよう。それは、中南米の森に棲むナマケモノである。
ぼくとアンニャと仲間たちは1999年に「ナマケモノ倶楽部」というNGOをつくった。でもアンニャによれば、「本当の創立者はナマケモノ自身」なのだ。ある日、エクアドルの森にいたアンニャに、その森に棲むミツユビナマケモノという動物の声が聞こえてきた。そして、アンニャの言うとおり、それがナマケモノ倶楽部と、そのスロー・ムーブメントのはじまりなのであった。
あれは、1998年、エクアドル北部沿岸のエスメラルダス州。港町の市場でミツユビナマケモノが表向きはペット用として、だが実は食用として売られているのをアンニャは目にした。あんなにのろまで無害で無抵抗な動物の手足を縛ったり、小さい箱の中に閉じこめたり、腕をへし折ったり。その光景が、アンニャにはますます暴力化している人間世界を象徴しているように思えた。アンニャはいたたまれなくなって、ナマケモノを買い取っては森に返そうとした。でも、彼女が買えば、買い手があるというのでもっと捕まえてこよう、ということになる。これじゃ解決にならない。ナマケモノを救おうと思ったら、そのすみかである森を守るしかない。では、森を守るためには・・・。いつもそうだが、アンニャの思考はこんなふうに、まっすぐと、問題の根本へと突き進む。
エクアドルに住みはじめてまもないアンニャは、日本にいるぼくや仲間たちに、メールで「SOS」を送ってきた。ナマケモノの森が危ないという「SOS」だ。
「森に行ったらナマケモノの声とともに、彼らの苦しみが私の中にスッと入ってきたの。彼らの苦しみは、森の苦しみ。そしてそれは私たち人間によって引き起こされた苦しみ。さらに、その人間もまた同じ苦しみの環の中にいる。でも、私が抱き上げたナマケモノの顔には永遠の微笑みが浮かんでいた。彼らは、きっと森の菩薩。苦しみの環から抜けだす道筋を、彼らが示してくれている」
彼女からのSOSを受けたぼく自身、同じエスメラルダス州にマングローブ保全のお手伝いで時々行っていたし、ナマケモノもよく見ていた。ちょっとかわいくてちょっと不気味な生きものだ、くらいに思っていた。でも、アンニャの話を聞いてピンときた。「よし、ぼくも何かしよう」と心に決めた。
ナマケモノになる
次にエクアドルに行ったとき、ぼくと動物学者の故・石井力さんはアンニャを誘ってエスメラルダス州に行き、森林破壊の現状を見て回った。ムダと知りつつ、捕獲されたナマケモノたちをそっと買い取ったこともある。そして、ある農場主を説得して、彼の所有地にある森にナマケモノたちを放した。世界初のナマケモノ保護区をつくるんだと、ぼくたちは張りきっていたっけ。
その頃から、ぼくはナマケモノ・オタクとなって情報収集に励んだ。昔、沖縄の名護の動物園長をしていたときにミツユビナマケモノを飼育したことがある石井さんは、頼もしい味方だった。その彼といっしょにパナマへ行き、ナマケモノの研究で知られたスミソニアン研究所の自然保護区を見学したこともある。アマゾンにおけるナマケモノとの不思議な出会いもあった。また、コスタリカを旅したときのこと、「ナマケモノ好きの変わった人がいる」という噂を頼りに、アヴィアリオス・デル・カリベという、多分、世界唯一の「ナマケモノ救護センター」のある民営の自然保護区に行きついた。その代表であるジュディ・アローヨと意気投合して、ぼくもそこで救護され今も飼育されている2頭のミツユビの里親になった。
以来、ナマケモノの親として恥ずかしくないスローな生き方を心がけているのだが・・・。
それはナマケモノを巡る「巡礼」だったような気がする。調べれば調べるほど、やっぱりナマケモノはすごい動物だと思い知らされた。たとえば、彼らの動きがのろいのは、少ない筋肉で、体重を軽量化し、低エネルギーで生きるための知恵だし、週に一度ほどわざわざ木の根元に降りて排泄するのも、その木に確実に養分を返すための知恵らしい。彼らの生き方はまさに循環、低エネルギー、共生、非暴力、といった現代人にとって重要なキーワードを体現するものだったのだ。
だとしたら、「ナマケモノを救え」というのはおかしい。むしろ、ナマケモノによってはくらのほうが救われるのではないか。そう興奮して話すぼくに、アンニャはビックリするどころか、「ね、やっぱり、そうでしょ」とニヤニヤしていた。そしてこう言った。
「今思うと、あのとき私が送った<SOS>は、Save Our Soul、つまり、“私たちの魂を救え!”というメッセージだったにちがいない」
うーむ、ちょっと苦しいダジャレだけど、アンニャが直観的に感じとった森からのメッセージを、ぼくも回り道してやっとつかんだ、ということで納得することにした。そして、アンニャの言う「ナマケモノの生き方に倣うことで私たちも救われる」という思想(本書で詳しく見るように、それをディープ・エコロジーと呼ぶ)を、「ナマケモノになろう」という標語で表現することになったわけだ。
何をナマケるのか?
そうしてナマケモノ倶楽部が発足する(詳しくは本文を読んでのお楽しみ)ことになるのだが、メンバーとなった本人たちさえ、「ナマケモノ」という名前に慣れるのには、時間がかかった。特に英語でナマケモノのことを「sloth」というのだが、これはユダヤ・キリスト教的な伝統の中で「死に至る七つの大罪」のひとつとして忌避される「怠惰」と同じ言葉だ。しかし、アンニャはひるまなかった。そして、できたばかりのナマケモノ倶楽部のために、「ナマケモノ・ソング」、「Call Me Sloth(ナマケモノと呼んで)」などのテーマソングをつくってくれた。
のろまとか、怠惰とか、クレイジーと思われても平気
買いたがらない、欲しがらない私
仕返しをしない私、必要のないことをしない私
そんな私をどうぞナマケモノと呼んで
私はゆっくり、ゆうゆう、自分のペースで生きていく
そうすればきっとうまくいく
アンニャにとってスローライフとは単にのんびりすることを意味するのではない。それは、消費をナマケる、経済をナマケる、所有をナマケる、競争をナマケる、スピードをナマケる・・・、というボイコット運動なのだ。
アンニャはこう考える。私たち運動家は、「南」の貧しい国々で起こっている環境破壊をなんとかしたいと、現地へ赴いてさまざまな活動をしてきた。それもすごく大事なことだけど、元をたどれば、そういう環境破壊の原因は、「北」のお金持ちの国々に住む私たちの浪費的な暮らし方にある。その原因そのものを変えることこそが重要だ。つまり、「より速く、より多く」を合言葉に生産性と効率性を競い、消費の量で豊かさを測るこの「ゲーム」から降りること。アンニャとぼくと仲間たちは、このことを、「ナマケモノになる」とか、「スロー」とかという言葉で表そうとしたのだ。
日本は特に、「ナマケ甲斐のある国」だ。アンニャは今でも日本に来るたびにびっくりするという。携帯電話やパソコンを買い換える速さ。自販機、プラスチックゴミ、捨てられる食品の多さ。家電と化した便器。駅前で配られるティッシュ・・・・・・。そのために、どれだけ自然環境が傷つけられているか。
「でも」、とアンニャは言う。「私たちの行動が問題の原因だとわかってしまえば、あとは簡単。その行動を変えるだけで、私たちは問題の原因から解決の側にとび移れるのだから」。ナマケモノとは、かくも能動的で、行動的で、ラジカルな生き方のことなのだった。
希望はある
ナマケモノ倶楽部が生まれて11年。この間には、いろんなことがあったけど、やっぱり最大のニュースは創始者のひとりであるアンニャ・ライト自身が二児の母親になり、「スローなお母さん」になったことだと思う。「Be Live Slow」という曲の中で、彼女は活動家として必死に動き回っていた頃の自分をふり返りながら、こんなふうに歌っている。
人生を見つけるために逃げだした少女は、
走り、叫び、泣き、声のかぎり歌い続けた。
その彼女は今こうして子どもたちを育てながら、
夢にまで見た森の中の質素な暮らしを愉しんでいる。
そう、少しずつ、スローであること、
そしてスローに生きることを学んでいるの。
母親となったアンニャは自宅出産、自然出産、そしてスローな子育てこそが、最もラジカルな平和とエコロジーのための活動だ、と信じるようになった。子どもの頃に早々と人間に絶望した彼女だったが、今は「希望」をしっかりと手にしている。彼女はぼくにこう言ったことがある。
「この世界には絶望的なニュースばかりだけど、でも新しい生命は生まれてくる。それは<まだ希望がある>ということの証明だと思うの。だって、本当に希望も何もないところに新しい生命はやってこないはずでしょ?」
第1部では、アンニャの生い立ちからはじめて、やがて旅の果てにマレーシア領サラワクの森にたどり着くまでの前半生を追う。第2部では、サラワクを出発点に、オーストラリア、ヨーロッパ、日本、エクアドルなどへと世界各地に舞台を広げながら活躍する、環境・平和活動家としてのアンニャの姿を見ていく。そこでは、日本やエクアドルで、ぼく自身の人生がアンニャの人生にリンクし、ともに環境運動を担う同志となる経緯をふり返ることになる。
そして第3部では、ディープ・エコロジー思想を手がかりに、アンニャやぼくが仲間たちとともに編みだそうとしてきたスローでシンプルな生き方の作法について、語りあってみようと思う。
アンニャの歌声が、言葉が、同じ時代を生きるあなたの中に共鳴を起こして、これからの厳しい時代を生きぬく糧となりますように。
2010年春 辻信一
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