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If I must die, let it bring hope

執筆者の写真: editoreditor

前回、『ガザの光 炎の中から届く声』の中から、ガザの詩人、リフアト・アルアライールの文章を引用させていただいたが、やはり、彼のあの詩をここに載せておきたい。


「私が死ななければならないのなら」ーー今ではネットを通じて世界中に拡散し、パレスチナの人々に心を寄せ、イスラエルやアメリカの暴虐に首を振る人々(ぼくもその一人だ)のあいだで、共通語となり、一種のアンセムとなった詩だ(とぼくは勝手に信じている)。


日本でも、2024年10月13日には、「NHKスペシャル」の「If I must die ガザ 絶望から生まれた詩」と題された番組がテレビ放映された。ガザ侵攻1周年を意識した放映だったのだろう。その前後には大変な圧力がかかったと推測されるが、制作と放映に関わり、それを成し遂げた方々に敬意を表したい。


この詩をnoteで投稿した芋仁はこう言っている。

「この詩の存在は知っていました。2023年11月1日(水)22:01にSNSへ投稿されています。その後12月に彼はイスラエル軍の空爆により死亡しています。私は自分のアカウントでリフアトさんのポストをそのままリポストしたりもしていました。でもそれ以上のことができずにいました。詩を読めば読むほど胸が張り裂けそうでした」


以下、原文である英語と日本語訳の対訳で読んでいただきたい。この日本語訳も芋仁の投稿にあるもので、それはやはり同じNHKの番組で使われたものだという。



 

If I must die  もし 私が死ななければならないのなら 

you must live  あなたは生きなければならない 

to tell my story  私の物語を伝えるために 

to sell my things  私の遺品を売り 

to buy a piece of cloth  布切れと 

and some strings, 少しの糸を買うために  

( make it white with a long tail )(長い尻尾のついた白いものにしておくれ)

so that a child,somewhere in Gaza  ガザのどこかにいる子どもが 

while looking heaven in the eye  天を仰ぎ見て 

awaiting his dad who left in a blaze-  炎に包まれ旅立った父を待つとき ─ 

and bid no one farewell  その父は誰にも別れを告げられなかった 

not even to his flesh  自らの肉体にすら 

not even to himself-  自分自身にすら ─ 

sees the kite,my kite you made, あなたが作る 私の凧が

flying up above  舞い上がるのを子どもが見て 

and thinks for a moment an angel is there  ほんのひととき 天使がそこにいて 

bringing back love  愛をまた届けに来てくれたと思えるように 

If I must die  もし 私が死ななければならないのなら

let it bring hope  それが希望をもたらしますように

let it be tale  それが物語となりますように


 

詩はもちろんだが、ぼくは芋仁のnoteの文章に惹かれた。

 

添えられた自己紹介にこうある。「沖縄出身です。Imoと呼ばれています。おそるおそる始めてみました・・・」


リアフト・アルアライールの詩について芋仁は言う。


そんな絶望的な状況をかいくぐり、今や世界中の言語に翻訳され、こうして私たちの所へもやってきました。この言葉には間違いなく人間として心に訴えかける魂が宿っています。同じ人間としてこの詩を手にとるのか。それとも素通りするのか ──

 

芋仁はそこで一度、俯瞰するような視線を取り戻して、世界の現状について、さらに何十年、何百年にわたる「責任」について語る。でも、彼はまた姿勢を低くして、「平和を享受する中でほんの少し、身近なところから取り組むだけでいい」と、独り言のように言うのだ。

 

私は最近つくづく思います。歴史上どんなに立派とされてきたものでも、「戦争やむなし、それが人間」としてしまう哲学は「真の哲学」ではない、と。それはもちろん科学にも当てはまりますし、文学や他の芸術、国家理念にも言えると思います。我々はそういう時代に生きている人間なのだと痛切に自覚する必要があります。矛盾しているようですが、私たちは「この先」何十年、何百年かかろうとも「今」止めなければならない理不尽に向き合う「責任」があります。少なくともそれらに対し麻痺してしまわぬよう自分へ問い続け、行動しなければなりません。どんなに無視され馬鹿にされ妨害されようと、負の連鎖を断ち切らなければならないのです。身を守るためのサバイブと両輪で、です。平和を享受する中でほんの少し、身近なところから取り組むだけでいい…その営みと連なりが戦争を抑止するのだと思います。




 もう一つ、2024年5月号の「現代詩手帖」は、「パレスチナの現代詩アンソロジー 抵抗の声を聴く」という特集を組んだが、その冒頭に掲げられているのも、同じアルアライールの詩だった。タイトルでもある「If I must die」がここでは「 私が死ななければならないのなら」と訳されている。ぼくはこちらの方が好きだ。「もし」がない分、常に死がすぐそこに迫っているというガザに住む人々の切迫感や覚悟のようなものが、より切実に感じられる気がする。



「わたしが死ななければならないのなら」


わたしが 死ななければならないのなら

あなたは、生きなくてはならない

わたしの物語を語り

わたしの持ちものを売り

ひと切れの布と糸をすこし買って、


(つくってほしい白く尾の長いものを)

 

ガザのどこかで ひとりのこどもが

天をみつめかえす

炎のなかに 消えていった父を待ちーー

だれにも別れを告げなかった

じぶんの肉体にも

じぶん自身にもーー


こどもはみる、あなたがつくったわたしの凧が、

空を泳ぐのを

そこに 天使が 一瞬 いる

こどもは思う 愛されている、と


もし、わたしが死ななければならないのなら

希望となれ

尾の長い 物語となれ


(松下新土+増渕愛子訳)

 

詩に付された「解題」の中で、訳者の一人でもある松下氏は次のように言う。


イスラエルがパレスチナに対して行なっているのは、その土地の「物語」を奪い、みずからのものとする暴力である。だからこそ、侵略者は歴史を語る老人たちを恐れる。新しい歴史を生きる赤ん坊を恐れる。


この詩を読み、パレスチナで何が起きてきたのかを知った、すべてのひとは、滅ぼすことのできない生命の物語を託されたのである。


歴史を書きかえる大量虐殺に抗するために、リフアトさんが選んだのは、「詩」という方法だった。「詩」は、雲と風の動きから、生命の源となるものをとりだす行為だ。どこか遠くで、この詩を受けとった方の中に、あたらしい物語が宿り、パレスチナが語り継がれてゆくことを深く願う。


さいごに、極限の飢餓下のガザ北部からメッセージをくださり、「IfI must dic」(二〇11年初出)の邦訳出版を託してくださった、リフアトさんの娘でいらっしゃるアルシャイマーさんに、心の底からの感謝を記したい。

(松下)





 

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