9月22日、エクアドル海岸都市、バイーア・デ・カラケスの環境活動家で、ナマケモノ倶楽部の仲間、マルセロ・ルーケさんが亡くなられました。近年は「セロ・セコ保護区」は他の人に任せ、ご自身は心臓の手術を繰り返して闘病されていたようです。ナマケモノ倶楽部設立時からのメンバーでもあるマルセロとの別れに、ナマケモノ倶楽部理事はじめ、エクアドルへのエコツアーに参加した仲間が悲しんでいます。
現地スタッフの和田彩子さんが、マルセロを見送る際の現地リーダー、パトリシア・タマリスの追悼文を和訳してくれましたので、ここに紹介するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。(事務局)
ソイラさん、ご兄弟、ご家族、そして友人たちへ
私の親愛なる友人、そして弟であるマルセロのことについて、ご家族から語らせていただくことをお許しいただき、光栄に思います。
昨日、彼が亡くなったこと知らせは、彼のことを慕っていた私を含めたみんなにとってそれは大きな衝撃でした。彼の心はもう耐えることができなかったけれど、でもそれこそが彼が残した大いなる遺産です。
30年以上、彼の忠実で誠実な友情、そして彼のプロフェッショナリズムに助けられてきました。昨日から24時間ずっと、自然保護・観光当局の人や技術者の仲間から多くのメッセージが届きました。マルセロは国内外の人々から本当にたくさん慕われていたんだなとある友人とお葬式で話していました。
彼の死は、バイーアとエクアドルにとって大きな喪失です。
多くの人が権力と生物の命を行使して、環境と私たちの天然資源を短期間で損傷、劣化、奪取してきましたが、その一方でマルセロは彼自身の力でコミュニティを動員し、コミュニティに力を与え、破壊を目前にしながら自然の保全と持続可能な発展を提唱してきました。 マルセロはいつも木のてっぺんのそのまた上を見ているような先見の明のある人でしたが、それと同時に根っこの部分を見失うことはありませんでした。彼がどれだけ人に教えることが好きで、何千人の人々に影響を与えた夢を見続けていたことか!
彼は、熱帯乾燥林を埋めるワヤカン(訳注:キバナノウゼン、イエロー・トランペットツリー)のように、毅然として、情熱を持ちながら環境保全のために戦いました。力強く、そしてこの20年厳しい状況にあったバイーアで、しぶとく戦い抜きました。
私の専門である観光業において、彼は最も頼もしい仲間でした。ただ単に仕事を共有するだけでなく、夢を分かち合ったものでした。私たちは、同じように、世界の波が変わっていくことを、バイーアが、持続可能な都市部のモデル、エコシティーになれるように、その市民がバランスを取り、自然のシステムこそが私たちを生かしてくれることを認識できるように、新しい持続可能な波が来ることを夢見ていました。
彼との良い思い出の一つは、日本の団体ACTMANG、プラネット・ドラムのピーター・バーグ、ストゥアリウム基金、そして重要な役割を果たした、ベジャ・ヴィスタのようなコミュニティーを作ったしなやかで強い人々とともにエコシティーを作っていったその過程でした。
この取り組みを続けていけたのは、マルセロが変化を強く求めたからでした。マルセロは毎日のようにそこに立ち寄り、一緒に時を過ごしていました。だから今日、環境活動家の人々、友人たちはみんなそこに彼の愛がたくさん詰まっていることを見るのです。もちろん、何かイベントがあるときには、彼は必ずみなさんとともに参加していました。
彼のプロ意識もとても高かった。だから私は胸を張って、マルセロはエクアドル・ペルー二国間ウミギク(訳注:貝の一種)の道設立プランの取り組みに必要だったと言いたいと思います。
彼は、自然観光のパイオニアでもあり、我が県の、エクアドル全体の海岸線のリーダーでもありました。彼のセロ・セコ(訳注:彼が築いた保護区で乾いた丘の意。)は彼の働きによりセロ・ブランコよりもずっと有名になりました。
マチェ・チンドゥル(訳注:国立保護区)の山のど真ん中で、4時間も湿ったジャングルの中をChachisを探して歩いたことを思い出す。そこは踏んじゃいけない、ついてきて、これを見て…、どんな外国人観光客も彼と歩いた経験を心から楽しんでいたことと思います。彼は本物のプロだった。どれだけ大変な冒険も彼とだったら、と思わせてくれる人物でした。
バイーアのドルフィンツアーで企画したチリヘの旅を思い出します。バイーアで初めてお迎えしたクルーズ船で到着したお客様の時でした。しかもその辺のクルーズ船じゃない、クイーンメリー号もある豪華クルーズライン「キュナード」の北欧の名船「ビスタフィヨルド」でいらしたお客様でした。このお客様方には大変喜んでいただけましたが、しかし98年のエル・ニーニョ台風のせいで街が壊滅し、クルーズ船のお客様をお迎えすることはできなくなってしまったのです。その経験を生かして、マンタに立ち寄るクルーズ船のお客様にいらしていただけるようになりました。
バイーアのドルフィンツアーのホエールウォッチングツアーはとても人気でした。夏のザトウクジラ観察するツアーで、バイーアの観光業を発達させることが可能だと、マルセロと共に確信していました。
マルセロを慕っていた人たちはたくさんいます。私も親しくしている、ガラパゴス研究で国際的有名な素晴らしい科学者エドゥアルド・エスピノサもその一人でした。彼からもメッセージを預かっています。
「親愛なる、そしてアイコニックだったマルセロのご家族とご友人たちへ。私たちの大好きだった、『チャヤン(訳注:マルセロの愛称)』が永遠に失われてしまったこと、お悔やみ申し上げます。いつも一緒に過ごしてきた兄弟のような存在で、いつも笑顔でその場を喜びで満たし、ポジティブだったチャヤン。若い世代に、そして私のような老いぼれ世代にも、いつも理想のために戦い、声を持たないそこに住むすべての生きとし生けるもののために地球への愛と情熱をシェアする思いを残してくれました。たくさんの冒険を一緒にしてきましたが、今は、私たちがみんな最後にたどり着く先に彼は先に行ってしまいました。でも、彼はその場所でもきっと、大地の光で輝き続けるでしょう。友よ、また会おう。神様があなたの横で照らし続けてくださるだろう。」
エドゥアルド、素晴らしいメッセージをありがとう。マルセロがメンバーだったバイーア・サーフィン・クラブのみなさんからもお悔やみの言葉をいただいていることも合わせてお伝えいたします。
この喪失は、母なる自然と神を愛する私たちみんなにとって埋めようがないものです。私たちの主は彼を別の使命のために連れて行き、彼をそばにおきたいと思っていたのでしょう。
しかしこの環境活動家の遺産は、いのちの実りと神の扉のおかげで失われてはいません。エコシティーのための取り組みをしているときにアンニャと知り合い、美しいパチャとヤニを授かりました。マルセロの心は彼らの中に生き続け、また彼の孫やその先の世代に受け継がれていくことを100%確信しています。世界は少しずつパチャとヤニが持つ力を感じ始めています。
昨日アンニャと話しました。彼らは3人は今オーストラリアの3つの州に別れて暮らしていますが、それぞれ悲しみに打ちひしがれています。何より、現在の制限された状況では、エクアドルにきて家族と抱擁をできないことを大変悲しんでいます。
親愛なるマルセロ、命を守る戦士であった君を失ってしまった喪失感はとても大きい。君の心臓はもう持たなかった。でもそれは肉体だけのこと。君の心は私たちの中で永遠に生き続ける。君に心からの抱擁を。
そしてソイラさん、あなたは素晴らしい息子を育てました。みんなに愛された私の友人、私の兄弟。この辛い時を神があなたやあなたの子どもたち、そしてご家族に力を与えてくださいますように。もし力になれることがあればいつでも私たちマルセロの友人を頼ってください。あなたの息子さんの素晴らしい業績を私たちは忘れないでしょう。
この場でお話させていただき、ありがとうございました。
マルセロ、またいつの日か会おう。
パトリシオ・タマリス
■ナマケモノメンバーからの追悼メッセージ:
マルセロ。20年前の、あの独特のオーラに包まれて輝いていた青年。珍しい熱帯乾燥林の中にある、貧しいセロセコの若きリーダー、エコロジスト。
あのパトリシオの遺跡のある海辺のリゾートでアンニャと彼があげた結婚式・・・!アンニャをバイーアに導いたのはぼくだったと思うので、二人の縁に、ぼくも関わっていたことになる。
あの頃のマルセロの歳にもなっていないパチャやヤニのことを思うと、心が痛む。
冥福を祈ろう。
rest in peace,
keibo
セル・セコは、初めてのエクアドル訪問の際に訪ねた場所の一つ。
彼の精力的な森林保護の活動が印象的です。吉岡
エクアドル、バイーア・デ・カラケスの森を守り、市民のちからで再生させた男、マルセロ・ルーケさん。浅黒い肌に、人懐っこい笑顔がチャームポイントで、「人生で結婚するとは思っていなかった」アンニャと同志として愛を育み、2003年にはみなに祝福されて手作りのエコロジカルな結婚式をあげたマルセロ。パチャとヤニの父として、アンニャ家族がエクアドルを離れたあとも愛情を注ぎ、2020年頭にはパチャと再会も果たしていたマルセロ。まだまだ活躍してほしかった地域のリーダーで森林保護アクティビストのマルセロが、天国に旅立ったとの知らせをアンニャから受け取りました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
>>パチャ「HOME」動画にもマルセロは登場します
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