「平和のためのユダヤ人の声(J V P)」のホームページは、こう続く。
「非暴力で平穏な学生たちのこうした抗議活動は、主要メディアによって反ユダヤ主義者による暴力的な暴徒であるかのように描かれている。キャンパスで起こっている唯一の暴力は、シオニストによる扇動と警官隊によるものであることは明らかであるにもかかわらず。こうした中傷は、目前の緊急課題から目をそらそうとするものだ。私たちは今こそ、これまで以上に問題に集中しなければならない。」
日本の新聞の報道によれば、コロンビア大学でキャンパスにテントを張っていた約100人の学生たちが逮捕された4月18日の前日、学長のシャフィク氏は連邦下院教育委員会の公聴会に呼ばれて、「あまりにも蔓延している反ユダヤ主義を非難する」と述べていたという。翌日、警察による学生排除を要請したのは、この学長である。この事件が日に油を注ぐ形になって、J V Pの言う全米規模の学生運動が広がることになる。
J V Pの記事は続く。
「プロビデンスからニューヨーク、バークレーからミネアポリスまで、私たちは街頭に出ている。パスオーバー(過越の祭)の期間中、私たちは『路上でのセデル(訳註:バスオーバーの夜に行われる儀礼的祝宴)』を開き、大量虐殺への米国の加担に抗議し、パレスチナ人の大量虐殺を正当化するために、私たちの伝統、歴史、そしてユダヤ人としてのアイデンティティが利用されることを拒否した。大学キャンパスでは、私たち『平和のためのユダヤ人の声』の学生支部が何十もの野営の組織化に関与している」
1969年に「自由のためのセデル」を組織した公民権運動のベテランで、90歳のユダヤ教ラビ僧、アーサー・ワスコウ師は、デモ隊を前にこう言ったそうだ。「アウシュビッツに向かう列車は、急に発車するわけでも、急に停車するわけでもない。今停めなければ、どんどん加速してしまうだろう。ラファ行きの列車もそうだ。私たちはそれを止めるためにここに集まっているのです」。
ぼくがこれを書いているのは、5月15日、そのラファへの攻撃が日に日に激しさを増している。ラファ総攻撃を思いとどまらせようという国際世論に抗って、ネタニヤフは連立政権を存続させることで権力にしがみつこうと、その連立の一角を担う極右政党の願いを叶えようとしているらしい。その願いとは、ガザから、そしてパレスチナから、彼らが人間以下の動物と見なすパレスチナ人を根こそぎにすること。世界の目がガザという舞台に向いているその舞台裏で、ヨルダン川西岸でも10月7日以来、すでに500人もの人々が、その極右政党の下に結集する入植者集団によって殺害されている。この集団をなぜテロリストと呼んではいけない理由がぼくには思いつかない。
とはいえ、それは政権に食い込んだ少数の狂信的なユダヤ至上主義者に限られた話ではない。首相であるネタニヤフさえ人種差別的発言を控えようともしない。去年の10月にはにはこう言った。
「これは光の子どもたちと闇の子どもたちとの争いであり、人間とジャングルの獣の戦いである」
また防衛大臣ヨアフ・ガラントは言った。
「我々は力によってガザを全面的に占拠する。そこには、電気も、食べ物も、水もないだろう。全ては閉鎖される。我々が戦っているのはヒューマン・アニマル(人間の姿をした獣)であり、それにふさわしい行動を我々はとる」
このあからさまな人種差別にも驚かされるが、それ以上に、これらの表現がイスラエル国内でも国際的にも、それほど大きな問題とならずにすんでいるらしいのは、考えてみれば恐ろしいことだ。
ここにも、同じ疑問が横たわっている。他の文脈でなら、問題にならずにはすまないことが、どうして、この文脈では問題にならないのか。特に、あれほど人種差別に敏感であったはずのドイツが、この間、イスラエルから発せられる露骨な人種差別的言動に対して、沈黙を決め込み、むしろ、諾々とイスラエルへの武器供与を含む支援を続けてきたことは衝撃的だった。
問題の核にあるのは、やはり、シオニズムという言葉らしい。シオニズムに少しでも批判の矛先を向けた途端に、それが反イスラエルであり、反ユダヤであると断定され、だからそれは人種主義(レイシズム)だとして断罪される。そしてさらに、人種主義とは、何よりもナチスのことなのだ。世界にはさまざまな人種差別があろうが、ナチスと、そのホロコーストは、別格であり、別次元であり、これを他の事象と比べることは許されない。その被害者であるユダヤ人を、他の被差別者と同列で語ることは許されない。それはタブーなのだ。
このシオニズムというタブーに世界中の、特に欧米の多くの人々が縛られ、囚われていることが、この半年あまりで明らかになった。そのことを頭では理解していたつもりのぼくにとっても、それは一種の啓示だった。バイデン大統領がにこやかに、そして誇らしげに、「私もシオニストだ」と宣言したのは、もちろん選挙や政治資金づくりのために新イスラエルのユダヤロビーに媚を売っていたのだとはいえ、同時に、「私は人種差別主義者ではない」という彼なりの表現のつもりなのである。彼は何かを無意識に、しかし深く、恐れているのだ。もしかしたら−とぼくはついうがった見方をしてしまう−それは彼のD N Aの中に潜む反ユダヤ主義を押さえ込もうとする衝動かもしれない。その点、イスラエルを熱狂的に支持するキリスト教原理主義右派が、同時に自覚的な反ユダヤ主義白人至上主義者であること、そして彼らからの支援をイスラエルのシオニスト政権が頼りにしているというのは、なんという滑稽な、しかし同時に悲劇的な構図だろう。
先に紹介した「平和のためのユダヤ人の声」に話を戻そう。そのホームページにも紹介された二つの発言をここに挙げておく。一つはJVPラビ僧評議会のジェシカ・ローゼンバーグの言葉だ。
「私は確信している。自分が生命とそのつながりを尊重するユダヤの伝統を引き継いでいることを。そして、シオニズムとは、私たちユダヤ人が心に抱えたトラウマと抑圧を操り、悪用するものだということ、を。シオニズムの核心はユダヤとは無縁の自民族至上主義なのだ。
もう一つは、ユダヤ系カナダ人の著名なジャーナリストで思想家、『ショック・ドクトリン』や『これがすべてを変える 資本主義vs気候変動』の著者、ナオミ・クラインだ。JVPの諮問委員でもある彼女は、パレスチナ支援のデモでの発言の中で「シオニズムからの脱出が必要だ」と言った。この「脱出」の英語はエグゾダス。それは元々、旧約聖書の「出エジプト記」にあるユダヤ人によるエジプト脱出行のことを指す言葉だ。この言葉を象徴的に使って、彼女はこう言ったのだった。
「私たちは一体何者なのでしょう。何カ月も、何カ月も、この通りに出て抗議している私たちは何をしているのでしょう。そう、これはエグゾダスなのです。シオニズムから脱け出すための旅なのです」(『ガーディアン』2024年4月24日号)
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