師であり友であるカナダの科学者で環境活動家、デヴィッド・スズキの誘いで、カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州西海岸の先住民ヘイルツク民族の集落ベラベラで行われたポトラッチに参加させていただいた。ポトラッチとは、北米太平洋岸北西部の先住民が伝統的に行なってきた祭宴だ。ホストとなる者が大勢の客を招き、数日間にわたって食事、歌舞音曲を提供しながら、さまざまなギフトを贈る。初期の人類学者が注目し、マルセル・モースの『贈与論』にも取り上げられて有名になった。しかしカナダでは、野蛮で、浪費的、非生産的で反文明的な悪習であるとする宣教師らの見方が広まった。その結果、政府はポトラッチを1880年代から1950年代まで禁止していたが、1970年代以降、各民族に文化再生の運動が起こり、その文化の核をなすものとしてポトラッチを再興する機運が高まっていった。
今回のポトラッチはベラベラに数年前に建てられたビッグハウス(かつての伝統的な家屋をかたどった巨大な祭祀場)で行われた。主催者(ホスト)は、ヘイルツクのリーダーの一人、ケリー・ブラウンとその妻フランシス。実は、このケリーにぼくは会ったことがある。1993年に北海道二風谷で行われた世界先住民フォーラムに彼は海外からの先住民ゲストの一人として出席し、ぼくはボランティアのオーガナイザーとして関わらせていただいたのである。その時、カナダからの先住民代表団の派遣を財政的に支援したのがデヴィッド・スズキ率いる環境団体デヴィッド・スズキ・ファンデーションだった。
ケリー・ブラウンはその後、北海道十勝地方のアイヌコミュニティとの交流と相互訪問を続けてきた。自分が主催する今回のポトラッチへも、ぜひ北海道から「とかちエテケカンパの会」というアイヌの若者グループを招聘したいとデヴィッドに相談、デヴィッドは費用の一部を支援することで応えた。結局、アイヌの伝統芸能を披露する若者十人を含む総勢十三人がやってくることになった。コーディネータはエテケカンパの会の事務局を務め、長年アイヌとカナダ先住民の交流を支援してきた芦澤満さん、引率者は帯広アイヌ協会の会長、笹村昭義(かずよし)さん。
前夜祭も含め二日半にわたって人々に多大な感動を与えた盛大なポトラッチ。ぼくのすぐ横の席にずっと座って式の進行を見守っていたデヴィッドが何度か、目頭をぬぐうのをぼくは見た。また、ため息まじりに「イッツ・ソー・パワフル(なんて力強いんだ)」と呟くのを聞いた。以下に紹介するのは、数日後、デヴィッドが今回のポトラッチを振り返りながらぼくに話してくれたことだ。
ポトラッチとは、カナダ西海岸先住民にとって重要な文化的表現だ。そこには先住民にとってコミュニティが何を意味するのかという感覚が強烈に表現されている。その中心にあるのは、「与えること」こそが尊く、名誉に値するという価値観だ。ウェルビーイング(幸せであること)とは、多くのものを獲得してため込むことではなく、得たものをコミュニティの仲間と、そして近隣のコミュニティの人々と分かち合うことによってこそ得られる、とこの文化では考えられている。ため込めば、一時的には潤うように見えるかもしれないが、長い目で見れば、分かち合う方が豊かだと、彼らは考えているのだ。
私がずっと言ってきたことだが、例えば、バンクーバーが世界一流(ワールドクラス)の都市になったと言って誇っている連中がいるね。しかし、ここでいうワールドクラスとはどういう意味なのか、考えてみる必要がある。それは多くの億万長者がいることか、不動産の値段が高いことか、ある種の人々だけが住めるということなのか? ノー。そうじゃないはずだろう!
私にとってのワールドクラスの評価基準は何か。それは、もっとも脆弱で、貧しい人々が、どれだけ幸せ(ウェル)か、だ。それこそ、社会がどれほど豊かで幸せな社会かを測る基準であるべきだ。しかし、この世界ではますます、幸せの基準を、どれだけ金をもっているか、で測るようになってしまった。
ヨーロッパやカナダ東部からの入植者(コロニスト)たちがやってきた時、西海岸地域の先住民のポトラッチという習慣を見て衝撃を受けた。意味がわからなかった。そして、これこそが、彼ら“インディアン”が野蛮人であることの証明であると決めつけたんだ。驚くべきことに、彼ら先住民は所有という概念さえ、金とか、富とかという概念さえもっていない。だからポトラッチでは、自分の持っている財産の全てを分け与えてしまう。これが野蛮でなくてなんだろう? それは入植者たちにとってあってはいけないことと思えた。カナダ西海岸を征服して間もなく、入植者はポトラッチを禁止した。彼らは恐れに駆り立てられていたのだろう。
トーテムポールにはリングポールというものがある。ある人がポトラッチを主催する度にそのリングポールの周りに線が刻まれる。その線の数を見れば、その人が何回ポトラッチを主催したかがわかる。村を訪れる人はリングポールを見て思う。「なんと、この人は5回もポトラッチをやったことがある、偉大な人だ」と。そしてその人に大いなる尊敬の念を抱く。
ポトラッチを催して、自分の全財産を分け与えたことが、人々に尊敬の念を呼び起こし、それがその人の名誉となり、名声となるというわけだ。大事なのはこの名声なのだ。それが、どれだけ、彼が同胞を助けたのか、人々に気前よくわけ与えたのかを示す。
今回、ケリーも雑談の時に、言っていたよね。このポトラッチの準備に丸二年かかった、これでまた文無しになってしまったよ、と。自給自足だった昔とは違うとはいえ、今でも一つのポトラッチを主催するのは大変なことだ。でも、その努力は報われ、与える者には与えられるようになっている。それが互酬的な伝統社会というものだ。例えば、この地に来て鮭をとったものは、漁の一部をポトラッチを何回もやった偉大な人のところにもっていくだろう。またブランケットをつくったものは、偉大な人のためにもう一つつくろうと思うだろう。つまり、ポトラッチでは全てを与え尽くすのだが、その代わりに、その人は大いなる名誉と、その後の人々からの物質的なギフトにもあずかるのだ。
白人入植者たちは、先住民がここに何千年も生きてきたことに対して、そしてその人々がつくり上げてきた文化というものに対して、なんの敬意も払わなかった。例えば、北へと向かった探検隊はイヌイットと出会う。イヌイットは動物の毛皮をどのようにして衣服にすればいいかを白人に教えたが、最初のうちは、それを野蛮なことだと思って、自分たちの着ている制服に固執したので凍えそうになった。白人の靴には鉄の釘が使われていたが、それが寒気を吸収して、足が凍ってしまった。こうして徐々に、イヌイットのやり方を学ぶようになった。
カナダ西海岸の冬の厳しさをどう克服するか、を白人入植者に教えたのも先住民だった。しかし、多くのものを与えてくれた先住民に対する敬意は育たなかった。白人たちは、相手の文化の優れたところを認めるのが怖かったのだ。自分の文化とその価値観が揺らぐこと、しまいにはそれを捨て去ることになるかもしれないという恐怖を感じたのだろう。その自分の文化の中心には、何よりも、富の獲得と蓄積を優先するという価値観がある。入植者たちが興味をもったのは、この地域の大地と海がもつ驚くべき物質的豊かさだった。それをどんどん手に入れて金に換えることだ。
「この原生森の木の見事さはどうだ!」。「海に溢れかえる魚を見ろ!」。それらはそのまま彼らにとって一攫千金のチャンスだった。自然を収奪して、ヨーロッパに送って富を築く。カナダ西海岸だけではない、これが北アメリカ全体の歴史を貫く、文化の基本テーマなのだ。フロンティアを目指して西へ西へと移動し、それぞれの土地で出会うインディアンを殺して、土地を獲得して大儲けする。金さえ得られればいい。困る人がいても、貧しいものがいようと、かまわない。金、金、金。私が世界中の先住民から何度も聞いてきた言葉がある。「お金は食べられない」。これは真理だ。でも我々の多くはいつの間にか、金こそが最重要事だと信じ込んでしまったようだ。たくさん金があれば、まるでより高級な人間であるかのように。
そう考えてみれば、当時の白人入植者にとって、ポトラッチがいかに危険なものに見えたかがわかるだろう。ポトラッチだけではない。その中に登場する数々のマスク、衣装、踊り、歌。その全てが禁止されたのだ。ヘイルツクの長老から聞いたことがあるよ。1960年代になっても、まだポトラッチ禁止令が廃止されたことが現地の人々には浸透していなかったらしい。ある人がリンゴを近所に配って歩いただけで、通報され、警察に引っ張られ、牢屋にぶち込まれた、と。「与える」というただそれだけのことがいかに恐れられていたか。
今回のポトラッチ、1日目の大半はまるでコミュニティ・ミーティングのようだっただろ? まずは近年亡くなった人々を悼み、家族を慰める「葬送の儀礼」や「墓石の除幕式」。次に最近悪い出来事があった人たちのために行われる「洗い流しの儀礼」。不幸な出来事をコミュニティ内外のゲストたちと共有し、共感の輪の中で祈ることで洗い流し、贈り物を送って前途を祝福する。「さあ、これで全て洗い流されたので、もう心配はいらない」と。
今回のポトラッチにもあったよね。村のティーンエージャーがトーテムポールに登り、それを仲間の少年が撮影した動画をS N Sに投稿して、話題になった。その少年二人を囲むようにして一族のものたちが並び、第三者である司会者が事件の詳細をゲストたちに説明した。聖なるトーテムポールに登るということはそのポールを立てた一族にとっては最大の侮辱だ。司会者は当人たちが反省をしていること、その家族も責任を痛感していることを述べる。次いで、もう二度とそういうことが起こらないことを家族として誓う。少年本人もマイクを握って謝罪した。その様子を見ながら、ゲストたちはみな優しい表情でそれに聞きいっていただろ。その場には誰も、怒ったり、責めたり、なじったりする者はいなかった。ポトラッチが一つの赦しの場となった。なんてパワフルな場面だったろう。私は感動で涙をこらえられなかったよ。
それから、さまざまな家族が次々に登場して、「高め合い(uplifting)の儀式」が続いた。そして今回は2日目の最初に、結婚式が行われた。地元ヘイルツク民族の女性の結婚相手は、バンクーバー島のヌチャヌス民族の青年で、この二つの文化の違う民族同士が繰り広げる、ちょっとコミックなやり取りが実に面白かった。
2日目にゲストとして登場したアイヌの若者たちによる歌と踊りにも感動した。彼らが若くしてこうした立派なポトラッチに参加し、カナダの先住民の文化再生と権利拡大の機運を肌で感じてくれたのが何よりうれしいよ。
歌も踊りも素晴らしかっただろう? 歌と踊りの一つひとつに、それを先祖から、いわば家宝のようなものとして代々継承してきた家族がいて、そのことを誰もが認め、敬っている。例えば一つの歌と踊りを披露するにあたって、その来歴を述べる。そして、それをホストへの、あるいはゲストへの感謝の印として披露する。ここには、この世界の中で自分たちがどんな場所を占めているのかについての、西洋近代人とは全く別の理解の仕方があるんだ。
私にとって、また妻のタラにとって、ベラベラを訪れるのは本当に感慨深い。私たちが最初にこの先住民の村を訪れた時、ここはカナダ先住民の中でも自殺の首都と言われるようなところだった。若者の自殺の多さが飛び抜けていた。つまり、希望がなかったんだね。ここだけでなく、白人人口に比べてはるかに先住民の若者の自殺が多い。その根本的な原因はレジデンシャル・スクール(先住民寄宿学校)にある。カナダ政府が設置し、キリスト教会に運営させた。近年、その恐ろしい実態が明るみに出されつつある。
この社会はなんと残酷なことをしてきたのか。想像してみてほしい。どこかの白人たちが突然、ある年齢になった子どもたちを、家族やコミュニティの了承もなく、強制的に遠いところへ連れていく。寄宿学校では自分たちの言語を喋ることも、自分たちの食べ物を食べることも禁じられている。学校で自分の言葉を喋ると、お仕置きとしてピンで舌を刺されるのだと、私にある経験者の女性が証言してくれた。
子どもたちはあるメッセージを毎日叩き込まれた。それは、「お前たちの文化は何の価値もない」、そして「お前は何の役にも立たない、無意味な存在である」というものだ。それは文化的なジェノサイドであり、民族浄化(エスニック・クレンジング)に他ならない。苦痛は単に精神的なものではない。体罰も日常茶飯事。そして性的虐待を受けた子たちもたくさんいた。最近、カムループスの先住民族の依頼による調査で、レジデンシャル・スクール跡から200もの子どもたちの死体が見つかった。子どもたちは学校でハエのように死んでいたのだ。
ポトラッチの禁止令は廃止されたとはいえ、文化がこうむったダメージはあまりに大きかった。私たちが最初にベラベラにきた40年ほど前には、すでにポトラッチ禁止令が出てから100年も経っていて、さてポトラッチを復活させようと思っても、それを実際に体験した人はもういなかった。年寄りが子どものときに、コミュニティの長老たちがポトラッチの話をしていたのを覚えている程度だった。ましてや寄宿学校に行かされた世代にとってはタブーだった。そんな状況でも、当時のリーダーたちはポトラッチをはじめとする文化の再生を諦めなかった。
熱心に書物を漁り、また長老たちからの聞き取り、近隣の民族との協力を通じて、情報をかき集め、つなぎ合わせていった。以来40年、私たちは西海岸の各地の先住民族が復活させていったポトラッチに参加してきたが、どこのコミュニティでも、年々力をつけて、豊かなものへと育てあげてきている。昔のままを再現するということではない。現代のコミュニティのニーズに適合するものとして伝統を巧みに変化させながら継承しているのだ。これはまさに文化のリジェネレーション(再生)以外の何ものでもない。
ベラベラでは2ヶ月前にもポトラッチが開催されたが、それを主催した一族の養子となっている私とタラは、家族の一員として参加した。その時にも、そして今回も衝撃を受けたのは、40年前に子どもだった人たちが今では各々の家族をもって、ポトラッチという大きな企画の中心を担って活躍していることだった。しかも、全ての儀礼や歌を自分たちのヘイルツク語で堂々とこなしていたことだ。なんという驚きだろう。風前の灯火だった言語が見事に復活するなんて誰が予想できたろう。
今では彼らは鏡に映る自分たちを見て誇りを感じるのだ。この人たちは、40年前には鏡に映る、なんの価値もない哀れな自分を見るのにも耐えきれずに自殺していったあの子どもたちと同じ世代なのだ。
環境活動家の私がなんでこまめにポトラッチに通い、ここまで先住民との交流を大切にしてきたのか、と聞かれる。私は確信しているのだ。先住民こそが、環境問題解決の鍵を握っている、と。ここにこそ、希望がある、と。
私に言わせれば、これまでの多くの環境活動は完全な失敗に終わったのだ。私たち活動家たちは、ダムやパイプライン建設に反対し、環境汚染を止めるために大企業を相手に闘ってきた。そして、なぜダムやパイプラインがいけないか、環境を汚染してはいけないかを議論したが、相手はそれに反論してきた。それは、「そんなことをすれば雇用が失われる」「企業が倒産する」といったもので、要するに、「環境を守ることは高くつく」という反論だった。この経済の論理の前に、我々は敗北を重ねてきたのだ。「どっちが得か」という議論の土俵の上では最初から敵いっこない。
一方、世界中の先住民の考えははっきりしている。彼らによれば、大地は神聖なものなのだ。大地は私たちの生存の基盤であり、私たちが必要とするもの全ての源である。言い換えれば、大地は「フー・アイ・アム(私自身)」なのだ。
これこそ、ハイダ民族のグジャウが、1980年に私に言ったことだった。私はテレビ番組「ネーチャー・オブ・シングズ」のホストとして、森林伐採に反対するハイダの闘いの先頭に立つ彼をインタビューしていた。私はこう訪ねた。
「あなたは木彫のアーティスト。ここの木が伐採されたからといって、それがどうだというのですか。森が消えてしまったら、あなたはどうなると?」
彼は無表情に答えた。「Well, then I will be like everybody else.(さあ、そうなったら俺はただの人になるんだろうね)」
このグジャウの言葉の意味が私には全くわからなかった。いったいこいつは何が言いたいんだ、と。でも後で考えてみて分かったんだ。これは驚くべき言葉だ、と。彼が言っていたのはこういうこと−−私たちの存在は、この皮膚や指先で終わるものではない、ということ。彼がハイダであるとは、空気に、水に、魚に、木に、鳥につながっているということ。それら全てのつながりが、彼をハイダにしている。自分を自分にしている。
やっとこのことが私にも分かった。実は科学も同じことを教えているのだ。空気も水もこの私の皮膚の向こう側に、私とは別のものとして存在するものではない。息を吐いたときにも、空気の半分は体内にある。つまり、私と空気の間に壁などない。私と空気は融合している。こう言ってもいい、私は空気なのだ、と。私が吐いた息はすぐに君の鼻に入り、誰もの鼻に入ってゆく。こうして私たちはみな空気という基盤(マトリックス)でつながっている。私たちの存在の母体とも言えるこの空気を勘定に入れずに、人間の自由とか、個人の権利とかといっているのは、考えてみれば馬鹿げている。
水についても同じことが言える。私たちはみな地球の壮大な水循環の輪に連なっている。私が水を飲み、それを汗として尿として排泄し、それがまた大きな水の循環の輪に戻っていく。火星に行ったら、自分の排泄物を食べたり、飲んだりしなければならないだろう。選択の余地はないんだ。地球規模でやっている水循環を向こうに移すわけにはいかないし、いちいち、食べ物や飲み物を運ぶわけにもいかないだろ。
人間はどうしてこうも破壊的な存在になったのか。話はフランシス・ベーコンやニュートン、そしてデカルトの時代に遡る。彼らは思ったんだ。我々人間はなんて利口なんだ、と。そして、この脳が全てだ、と思い込んだ。そう、あの「われ思う、ゆえに我あり」だ。あれ以来、私たちは確信し始めた。自分たちは他の動物と違うんだ、と。我々は利口だから他の生き物とは次元が違うんだ、と。
産業革命を成し遂げ、確かに我々は音よりも早く移動するようになり、望遠鏡や顕微鏡で世界の果てまで見ることができると思い込むようになった。遺伝子操作で生き物をつくり出すこともできれば、自分たちより賢いもの、つまり、A I だってつくり出せる。自分たちはなんて賢いんだ、と。こうして、私たちはもう自然の一部だとは考えなくなった。だから自然をゴミのように扱えるし、そのことに責任を感じることもない。
私が先住民と出会った40数年前より以前からそう考えていたのかって? いや、それまでの私は、ただの科学者にすぎなかった。環境問題や社会問題で活動していたが、しかし、浅薄(シャロウ)なアクティビストであり、科学者だった。環境運動家として、テレビ番組のキャスターとして取材に行ったハイダ・グアイで、私はグジャウをはじめとするハイダの先住民たちと出会い、彼らの深遠(ディープ)な世界の見方に触れて、私は変わった。それ以来、先住民のおかげでより深い世界観へと導かれていったんだ。
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